しくじり先生
誰しも若い頃はやりたいこともぼんやりしていて、まわり道しながらも色々な仕事をやってだんだん気付くことがあると思います。私もそのようにやってきましたが、これまでは酔っぱらって人に話すことは『武勇伝』が多かったように思います。しかしながら我が身をおきかえて聴き手として振り返ってみますと、『失敗談』のほうが断然記憶に残っていることは間違いないと断言できます。
こんな単純であたりまえのことに気づくのに相当の年数を要してしまったのですが、気付いた以上は誰かに話してみよう。実践してみよう。というのがこの『しくじり先生』というコラムシリーズです。ここでは、主にプロのはしくれとして住まいづくりに関する『しくじり』を中心にしますが、直近の経験ではマンションリノベーションでの『しくじり』が記憶に新しく、また鮮烈であることから加えさせていただくつもりです。
すこし前に「私、失敗しないので」という決めゼリフのTVドラマがありました。新米の頃はさておきベテランになってくればくるほど、その道が長くなってくるほど『しくじらない』ように見られたくなるものです。
火中の栗を拾う人
果敢に『火中の栗を拾う 』 ※ 人ほど『しくじって』しまう事も多くなります。
※『火中の栗を拾う』: 猿におだてられた猫がいろりの中の栗を拾って大やけどをしたという、ラ‐フォンテーヌの寓話 から。自分の利益にならないのに他人のために危険を冒すたとえ。
誰しも『しくじり』たくはありませんが、決して悪いことばかりではないようにも思えてきます。
→『しくじる』から必死で考える
→必死で考えるから発想が出る
→そしてまわりに協力を求める
→協力を求めるから感謝できる
→感謝できるから次のチャンスが巡ってくる。
ということも多く経験できるのです。それはチャンスが増えるという事でもあります。
↑火中の栗を拾いましょう。火傷しそうですが、おいしいですよ。
何がしかやってみるからこそ、何かが見えて次に生きてくるということかと思います。これは大人子供の区別なく、やってみた人だけが分かるもので、次々発生するやっかいなことから逃げ回っている人には分からない感覚だと思います。
私の師匠はお酒が好きな方です。 ”ガソリン”が入るとエンジン全開で数々の『しくじり』を話してくださいます。その途端に同席された方々は皆「なんだ、先生もやらかしてるのかー」と安堵するとともに、心の中のメモ帳にしっかりメモるのです。私もそれが楽しみで酒席に赴くのです。いつ飲んでも師匠の話がおもしろいのは、どうやら火の中の栗を拾うばかりではなく、火傷をしながらもしっかりと栗を食べてきたからであることは間違いないようです。
あなたは、これまで『しくじって』きてますか? そして、その『しくじり』を誰かに話してますか?
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