[第3回] 私の住宅設計作法 (設計の上達について)

2021/02/0902:34897人が見ました

皆様お疲れ様です。 COMODO建築工房代表の飯田です。

前回は僭越ながら自作を紹介させていただきました([第2回]「くの字の平屋」ほか紹介)。さて、第3回目となる今回は私自身の「住宅設計作法」についてお話しさせていただきたいと思います。設計と聞くと身構えてしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、設計の上達、この課題に関しては建築を営む者にとって永遠のテーマかと思います。見た目のデザインに留まらず、断熱・構造などの性能面にも設計という言葉が当てはまります。温故知新で日進月歩……我々建築屋は一生学び続けなければなりません。昔ながらの素材を用い、日本風土に適したデザインをしつつも、使用する建材や設備によって変化に順応する温故知新。断熱材や空調設備など、メーカー努力により様々な商材が生まれ、納まりの改善を繰り返す日進月歩。選択肢が多種多様なだけに、どれが正しいと判断するのは容易ではない昨今です。

しかしながら、住まい手に順応し続けるのではなく、また素材や商材に翻弄されるばかりでなく、作り手側が核となる設計力を持って臨みさえすれば、いつしかそれが何にも負けない武器になることを15年間揺るがず推し進めてきた私は感じております。例え誰に何を言われようとも、例え万人受けせずとも、信じるのです、自分の建築を。

 

設計をどのように学ぶのか

では今回の本題となりますが、どのように設計を学ぶのか。設計力の上達を図るのか。ここからはあくまで私の個人解ですので、一例の参考としてお読みいただければと思います。

 

1.まずは好きな建築の方向を定める

 この時点で世間に迎合することを許していません。いまこの建築が流行っているからとか、売れるからとかいった理由では、息が続きません。会社としても個人としても、まずは軸がなくてはならない。好きを建築で表現する。決して容易ではありませんが、何事も近道などなく、とにかくコツコツと積み重ねるしかないのではないでしょうか。

今日明日には見つけられないかもしれませんが、たくさんの建築を見て、その出会いが来るチャンスを伺ってみてください。まずは書籍やPCから好きor嫌い程度で構いません。いつか「好きフォルダ」がいっぱいになった時、一筋の軸が見えるかもしれませんよ。

 

2.好きな建築家を見つける  

好きな建築の方向性を見出せたら、今度は誰を師事するか。マスがどんどん絞られてくるのを感じていただけると思います。この人!を見つけられたら後はもう迷いは生じないことでしょう。ほぼほぼその系譜の方々に辿り着くので、ひとりじゃなくてもいいのかもしれません。むしろ一本軸はそのままに、様々な個人解が垣間見えるので、多種多様な汎用性として順応出来ることでしょう。

 

3.系譜となる建築に足を使って実際に見学し、身を置いて体感する 

目を養います。想像ではなく、実際の空間に身を置いた時、自身が感じる心地よさを体感し、それが創造に変わる時まで足を運ぶ。設計をする際、その体感を糧にした線を引ける日まで繰り返すのです。スケッチするもよし、寸法を体得するもよし。

ただ注意しなくてはならないのは、それで満足しないこと。スケッチや寸法を測ることが目的となり、元来の目的を見失いかねません。ですからあえて私はスケールで測るようなことはせず、カメラに収めることを主としています。カメラの構図にこだわり、光やヴォリューム感、空間性など、なぜこの建築が好きなのかをカメラによって切り取る作業を今でも繰り返しています。これは人それぞれですので、ご自身にあったやり方を見つけてください。

 

4.真似る、ひたすら真似る

一(いち)から作り出す必要はありません。やっている人がいるなら真似ればいい。そしてそれを体得し自分のものにすればいいのです。学ぶとはいえ無理をしては行き詰まってしまいますから、楽しむことを優先してください。真似は決して恥じることではなく、先人もそうしてきたのですから。

しかしながら、リスペクトの気持ちは決して忘れてはなりません。真似ておきながらオリジナルを謳うことほど恥ずかしいことはありませんよ(笑)

 

5.繰り返し繰り返す

 冒頭でも申し上げたように、温故知新で日進月歩な建築の世界。ゴールも終わりもなく、常に進化し続ける必要性がありますし、自身の好みも変わってくることでしょう。いつそれが起こってもいいように、準備をするためにも繰り返しこれらの作業を続ける。何より、建築の好きが止まりませんから、否が応にも学びたくなるのが心情です。人生に建築を捧げる、それくらいの気迫があっても大袈裟ではないと思っております。

 ちなみに私が師として仰ぐ建築家は言わずもしれた「伊礼智」さんです。建築はもちろんのこと、その「目を養い手を練る」という建築に対する学びの姿勢を学ばせていただきました。

 伊礼さんとはもう15年近いお付き合いをさせていただいております。当時はもう追っかけ状態で、オープンハウスが行われる際には必ずと言っていいほどお伺いしておりました。きっかけは吉村順三に惚れ込み、宮脇檀さんや永田昌民さん、中村好文さんを知り、伊礼さんと出会いました。私の中では師匠と言えるほど、本当にたくさんの学びを得て、もちろん今も。作品性はもちろんのこと、その作風が生まれてくる人間性をも知りたくて、飲みの場では常に隣を確保(笑)。デザインを真似ることは図案を公表していることから案外と容易いのですが、その精神論と申しましょうか、線一本において常に意味があることを学んだように記憶しています。

 

の上達は自身の好きを磨き上げる作業

 デザインの先の暮らし、空気感、居心地など、単に美しいのではなく、人に寄り添う住まいとはなんぞやと、問いかけられているように今も感じます。ですから、私がデザインを進める上で必ず「伊礼さんなら」とよぎることは常。 そこに私なりの解釈を加えながら設計を進めています。人によってそれはモノマネだと言われることがございますが、決してそうではないのですよね。伊礼さんからもお褒めの言葉をいただきますが、あくまでデザインベースのベクトルがあって、そこに則って何を生み出せるのか。自分なりの解釈を自分なりに消化しきれているか、核心はそこにあるように感じます。

 私自身はデザインをゼロから生み出すことは苦手とし、モチーフやアレンジから生み出すことを得意としています。まずきっかけを拝借し、何がいいのかを感じ、それを紐解き解釈する。その連続が設計だと心得た上でペンを走らせます。近道はなく、常にそれを繰り返し、いつか自分の型が生まれるのではないでしょうか。東京藝大の諸先輩の方々もそうであったと伺い、これでいいのだと、勇気をもらった記憶が甦ります。

 何度も申し上げますが、設計上達には決して近道はありません。ぜひ皆様も、好きを建築で表現なさってください。それはいつか必ず誰かに響くことでしょう。そう信じて私も日々精進し、邁進する所存にございます。

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